いじめや差別はなくならない

「いじめをなくそう」というスローガンを、私たちは何度聞いてきたでしょうか。学校の標語、教育委員会のポスター、政治家の演説。何十年も、同じ言葉が繰り返されてきました。

でも、いじめはなくなっていません。形を変えただけです。

昔は殴る、蹴る、持ち物を隠す。誰の目にも見える暴力でした。今はSNSでのグループ外し、既読無視、匿名掲示板での誹謗中傷。教師の目には見えない、証拠も残りにくい。見えるいじめが、見えないいじめになりました。それだけのことです。

差別も同じです。露骨な差別は減りました。でも形を変えて残っています。「そういうつもりじゃなかった」という言い訳とともに。

人間の脳は、差別するようにできている

なぜいじめや差別はなくならないのでしょうか。道徳教育が足りないからでしょうか。教師の指導力不足でしょうか。親の躾の問題でしょうか。

違います。もっと根本的な理由があります。

心理学者のヘンリー・タジフェルは1970年代初頭、「内集団バイアス」を発見しました。

実験はシンプルでした。被験者を完全にランダムに2つのグループに分けました。それだけで、人は自分のグループを優遇し、相手のグループを差別し始めたのです。

共通の歴史も、利害関係も、何もありません。ただ「同じグループ」というだけで仲間意識が生まれ、「違うグループ」というだけで敵対心が芽生えます。

これは特別な訓練を受けた人だけの話ではありません。子どもも大人も、教養のある人もない人も、同じように反応します。人間の認知システムに、最初から組み込まれている機能なのです。

集団の圧力に、人は逆らえない

1950年代、心理学者ソロモン・アッシュは、集団の圧力がいかに強力かを示す実験を行いました。

被験者に、明らかに違う長さの線を見せます。誰が見ても、どちらが長いかは一目瞭然です。でも、実験協力者(サクラ)たちが全員、わざと間違った答えを言います。すると被験者の約75%が、少なくとも一度は、明らかに間違っているとわかっていながら、集団に合わせて間違った答えを言いました。

これが同調圧力です。自分の目で見た事実よりも、集団の意見を優先してしまいます。そして集団から外れた者は、排除されます。

いじめの構造も、これと似ています。最初は誰かひとりが標的になります。周囲は見て見ぬふりをします。なぜなら、庇えば次は自分が標的になるかもしれないからです。そして徐々に、いじめに加担する側に回ります。それが集団内で生き延びる方法だからです。

階層を作り、維持しようとする心理

社会心理学には「社会的支配理論」という概念があります。人間は集団間の階層構造を作り、それを維持しようとする心理的傾向を持っているという理論です。

ある集団が「上」で、ある集団が「下」。この序列を正当化するための理屈を、人は無意識に作り出します。「あの子は空気が読めないから」「自業自得だ」「努力が足りない」。

差別も同じメカニズムです。既存の階層構造を維持するために、無意識のうちに差別的な判断をします。そしてそれを「差別ではない」と正当化します。

これらは、人間が社会を形成する過程で進化的に獲得してきた認知システムの一部です。だから、簡単には消えません。

「根絶は不可能」だが「減らすことは可能」

ここまで読んで、絶望したでしょうか。「じゃあ、何をやっても無駄なのか」と。

そうではありません。

いじめや差別を完全にゼロにすることは、おそらく不可能です。それは人間の認知システムそのものに根ざしているからです。でも、大幅に減らすことはできます。そのエビデンスは、確かに存在します。

ノルウェーの心理学者ダン・オルヴェウスが開発した「オルヴェウス・いじめ防止プログラム」は、学校全体でいじめに取り組むための包括的なプログラムです。複数の研究で、このプログラムを導入した学校では、いじめの発生率が20〜50%減少したことが報告されています。

性差別や人種差別についても、測定可能なレベルで減少しています。潜在連合テスト(IAT)という、無意識のバイアスを測定する手法があります。このテストの結果を見ると、過去数十年で、性別や人種に対する無意識の偏見は確実に減少しています。

完璧ではありません。まだ偏見は残っています。でも、減っています。確実に、減っています。

これは感染症と似ています。インフルエンザも、結核も、根絶はできていません。でもワクチンや治療法、公衆衛生の向上で、死者数は劇的に減りました。根絶できないからといって、対策が無意味なわけではありません。

「いじめゼロ」という幻想が、現実的な対策を阻害する

問題は、「いじめゼロ」を掲げる学校や組織の多くが、実際には隠蔽に走ることです。

学校は「いじめはありません」と報告します。定義を狭くして、件数を減らします。被害者に「気にしすぎだ」と言います。加害者に「ふざけていただけ」と言わせます。

なぜそうなるのでしょうか。「ゼロにできる」という前提があるからです。ゼロにできるはずなのに、いじめが起きている。それは管理者の責任だ。だから、隠します。

これは完璧主義の罠です。「完全にゼロにできないなら、意味がない」という思考。でも現実は違います。10件を5件に減らせば、5人の子どもが救われます。それは意味があります。

「根絶できる」という幻想を捨てることが、逆説的ですが、より現実的で効果的な対策につながります。

現実を理解した上で、何ができるか

では、私たちに何ができるのでしょうか。

個人レベルでは、自分の中にある認知バイアスに気づくことです。「あの人は嫌い」と思った時、それは本当にその人の行動によるものでしょうか、それとも「違うグループ」だからでしょうか。メタ認知、つまり自分の思考を客観的に見る訓練が必要です。

組織・学校レベルでは、効果が実証されている介入プログラムを導入することです。オルヴェウス・プログラムのような、科学的根拠のある方法を、真摯に実施します。形だけでなく、本気で。

社会レベルでは、規範を変えていくことです。「ちょっとしたからかい」が許容される文化から、「それは許されない」という文化へ。法律や制度も重要ですが、それ以上に、日常の小さな場面での声が重要です。

これらは完璧な解決策ではありません。いじめも差別も、なくなりはしません。でも、減らすことはできます。少しずつ、確実に。

理想論ではなく、現実を見据えて

いじめや差別はなくなりません。これは科学的事実です。

でも、減らすことはできます。これもまた、科学的事実です。

私たちに必要なのは、綺麗事の理想論ではありません。「いつか、みんなが仲良くなれる世界が来る」という夢物語ではありません。人間の本性を直視し、その上で、できることをやるだけです。

完璧を求めれば、隠蔽につながります。現実を見据えれば、不完全でも前に進めます。